ドゥルパドとは ―ドゥルパドの精神性―

うたうヨーガ、うたう瞑想、ドゥルパド。

ドゥルパドの精神性

その出発点においてドゥルパドは世俗の楽しみのための音楽ではなく、森の中でグルと弟子たちによって修行される個人の精神修養のための音楽であったとされ、深くヒンドゥーイズムに根付いています。ヒンドゥー教には色々なレイヤーがあり、呪術的で原始的な段階からアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論・不二一元論)という一宗教をも超えた段階まであります。後者は、仏教の禅やスーフィズム(イスラム神秘主義)とその教えの核が同じと言ってもよく、またアドヴァイタ・ヴェーダーンタやスーフィズムの見地では同じであるとみなされていると言っても過言ではありません。

ドゥルパド声楽演奏の後半に登場する主題は、実にアドヴァイタ・ヴェーダーンタに基づいた歌詞(パダ)が多く、イスラム教徒の声楽家もスーフィーであるため同じ歌詞を歌います。また当然スーフィズムの歌詞もあります。

故Ud. ジア・モヒウッディーン・ダーガルは、ルドラ・ヴィーナー奏者でしたが長年人前でルドラ・ヴィーナーを演奏しようとはせず、人前ではシタール(カヤール様式の楽器)を弾いてドゥルパドの冬の時代を乗り切っていたそうです。 人前でルドラ・ヴィーナーを演奏しなかったという理由は、ドゥルパドは個人的な精神修養の手段としての音楽であり、世俗の楽しみのための音楽ではないからということでした。

さて、そのようなドゥルパドは三種のヨーガ(ヨガ)を土台としていると言われています。まずここで、語源的に『統合』という意味である『ヨーガ』の定義を明確にしておきますと、一言で言えば「本来の自己と、それから分離してしまったエゴである個我を再統合する」ことをさします。これは真我実現を意味します。アドヴァイタ・ヴェーダーンタの見地からすれば、この再統合のための道は無数にあり、ヒンドゥーのみならず他の様々な宗教でも到達できるということになります。この再統合を目指すのなら、スーフィズムや仏教、キリスト教であっても、例えば神道であっても構わず、そして必ずしも神を語らなくても構わないことにもなるのです。

ちなみにいわゆる『ヨガ』は、日本では心身の健康や美容のために身体的な体位(アーサナ)を行うものとして認識されがちですが、本来インドではそれらの肉体的な修練はハタ・ヨーガというジャンルで、本来のヨーガの補助的なものです。

さて、この再統合へと至るヨーガの道を大別すると二つに分けることができます。 ニャーナ*・ヨーガと呼ばれる知識の道と、バクティ・ヨーガと呼ばれる帰依・信愛の道です。そしてその二つを補佐するたくさんの種類のヨーガがあります。(*またはジニャーナ、日本の仏教ではジュニャーナ)3種類のヨーガのうち、ドゥルパドの具体的な発声や歌い方の核となっているヨーガが、ナーダ(音)・ヨーガです。これはクンダリニー・ヨーガという身体的なヨーガの一ジャンルです。そして、バクティ・ヨーガもドゥルパドのエッセンスの一つです。これは、神やスピリチュアルなグルといった信愛の対象に帰依し愛しぬいて全てをゆだね捧げる道で、そのようにして統合を妨げているエゴを浄化していきます。バクティと歌や音楽とはもともと相性が良く、信愛の対象への賛歌が歌われます。宮廷音楽として取り上げられる以前に、ドゥルパドはお寺で奉納される音楽でもありました。また己を無にして演奏することで、音楽を通じて神聖なものにまみえることも目指されます。

しかしながら、ニャーナ・ヨーガ、知識のヨーガこそがドゥルパドのエッセンスだと故Ud. ジア・モヒウッディーン/ジア・ファリードウッディーン・ダーガル兄弟は断言しています。知識といえば、勉強して身につけていく知識と捉えるのが一般ですが、「唯一絶対なる知識」 というようにインド風に捉えますと、それは逆に後から獲得する知識ではなく、元からの存在そのものである『本来の自己』のことを指します。これは禅の道とも言え、ドゥルパドは、音楽を通して本来の自己を知る(体験する)道だということです。

このように出発点として精神修養の音楽であり、3種類のヨーガがそのエッセンスであるドゥルパドですが、宮廷音楽として取り上げられたように人々を慰め楽しませる音楽の一面も持つ素晴らしく芸術性の高い音楽でもあります。